マクギークリークのパックステーションで数時間過ごした後、次なる目的地『Manzanar War Relocation Center』へ向け出発しました。再び395号線に戻りオーウェンズリバー荒野を左に見ながらさらに南下すること3時間半、目的地に着くまでのガソリンが不足しているようだったので、近くのジェネラルストアーでガスを給油しました。こんなジェネラルストアーには時としてお宝のもののコールマンパーツなどがある場合があります。
〜悲しみのマンザナー日本人収容所
悲しくて、悲しくて、悲しくて・・・。ここの歴史を知れば知るほど、日本人として悲しい思いにならずにはいられない、ここを訪れ素直に感じた言葉です。日本軍がパールハーバー(真珠湾)攻撃を行ったのをきっかけに、その当時アメリカに住んでいた日系アメリカ人はアメリカ国内に設けられたいくつかの日本人強制収容所に送られることになります。家財道具一切を没収され、たった荷物ひとつだけ持参することを許され・・・。 マンザナーに関する詳細は、こちらのウィキペディアにて調べることができます。他、『マンザナー』のキーワード検索で多くの資料を得ることができます。また現在は国立公園のひとつとして成り立つマンザナーの姿があります。その国立公園としての情報はこちらにあります。
この壮大な山を見た瞬間、“ここからは絶対に逃げることなどできなかっただろうな・・・”と素直に感じました。灼熱の暑さ、夜になると極限まで冷え込む寒さ、そして薄く乾燥した空気と・・・。何をとってもこの壮絶な荒れた土地に立てば、誰もがすぐに感じることだと思います。自然に罪はありませんが、悲しくも収容所としては当時、これほど好条件の場所はなかったのではないでしょうか。 遠くに見えるのは唯一残された監視塔です。 本当に荒れた土地、この写真を撮る為にカメラのファインダー越しに見ながら眺めていると、今では当時のバラックや建物の土台など全くと言ってよいほど無い為、その当時の暮らしぶりや生活ぶりを想像することはほとんどできませんでした。しかし、ここに収容された日系人の人たちが耐えた灼熱、極寒の世界は感じることができました。 当時、米軍が司令塔として使用していたビルディング、今はビジターセンターとして活用され、中には当時の展示品やバラック内部を再現したモデル、マンザナーの歴史の小映画などを観覧することができます。 当時、日系人が収容された強制収容所はここマンザナー以外にもいくつかありますが、現在のマンザナーでは、収容されていた人たちの家族や親戚、そのほかの人たちが力を合せ、当時の収容所の姿を復活(再現)しようとする働きがあります。しかし、これを実現させるには膨大なお金が掛かります。決して楽しい思い出が数多く残る場所ではないと思いますが、ここに収容されていた人々からすれば、当時ここで体験した暮らしを後の世代にきちんと引き継ぐことが、恐らく大切なことであり、そうすることにより少しでも心が安らぐのではと思います。
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チェックバルブレンチ
オールドコールマンのメンテナンスには、チェックバルブレンチは必需品です。ライティングコールマンで主に利用しているものは1960年代頃のものですが、日本国内では大型アウトドアショップのナチュラムさんで入手できます。
マクギークリークパックステーションの詳細は、上のロゴマークをクリックすると、マクギークリークのホームページを訪問することができます。 リー&ジェニファーローザー夫妻により1988年から運営されています。イースタンシェラを訪れる機会があれば、是非会いに行ってください。とても親切な夫妻です。
日本でも“ラングラー”と言う言葉を誰しもが耳にしたことがあると思いますが(そう、ラングラージーンズです)、ラングラー(Wrangler)とは、主に馬や牛を扱う人たちのことを示す言葉です。 ここマクギークリークのパックステーションで働く人たちがまさにその“ラングラー”です。こう聞くと、ラングラージーンズの由来もうなずくことができますね。 きっとここで働くラングラーの人たちはこだわりを持っているのでしょうね、はいているジーンズを見ると皆Wranglerのジーンズをはいていました。カウボーイハットにカウボーイブーツ、そしてほこりまみれになったラングラージーンズ姿、皆さん本当にかっこよかったです。
ここマンザナーには後に立てられた記念石碑があります。内の奥さんがその石碑に手を合せると、自然と二人の子供も同じように手を合せていました。その石碑を前に、その歴史の重みを感じ、カメラに収めることはできませんでした。 またヨセミテ公園の風景写真で有名なAnsel Adamsですが、実はここマンザナーでも彼は当時いくつかの写真を撮影しています。こちらのリンクから、当時彼の撮影したマンザナーの風景をご覧いただくことができます。
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